昭和39年12月29日 夜の御理解

昨夜の御理解に、お供えをさせて頂く者も一生懸命なら、それを取り次がせて頂く者も一生懸命、それを使う者、も一生懸命。三拍子が揃わなければ、全体の大きなおかげになってこないという。そんな御理解を以前に頂いたことがありますけどね。お供えをさして頂く者も一生懸命。ところが、取次の者がそれを一生懸命でお取次ぎしない、そしたら一生懸命でお供えした者の、もおかげを頂けんということになる。っ大事なことです。お供えさして頂く者も一生懸命、お取次ぎをさして頂く者も一生懸命、そしてそれを、おぉまあ、ご直会として頂く場合もありましょう、まあ様々に、それを、使わしてもらう。ことにも一生懸命の思いと真心をもってそれを使わしてもらう、そこに、えぇ、期せずして大きなお供えをした者も、お取次ぎをさして頂いた者も、それを使わして頂く者も、おかげを頂いていく。ちょうど言うならば三味線の、一の糸二の糸三の糸のようなものだと私は思うですね。この三本の糸が、調子が揃わなければ良い音色が出ない。
昨日、もう昨夜でした、家内が「明日はあの御鏡つきですから、いつのお餅の突きの時でも、必ず話が出るんですよ」と、「ああこれはあの落とし餅かなんかにして頂いたら美味しいばってんっち言うてから、そのぉ、いう話が出ます」と。「皆さん御用にみえますから、一臼でも良いから、なんかそういう風にして頂くわけにはいけんでしょうか」っち言うち家内が、申しますから「お前馬鹿じゃなかか」ち私申しました。それこそ一握りのお餅米だってみんなが、あぁ、「御鏡さんに」と言うてから持って来とるとぞと、私が。ね。それを落とし餅どんしてからお前は、あぁ、(ごう頂いとる者)が食べたらどげんなるかち、と言うてまあ、ですよ、「私もそげん思うとりましたけれども、いつの年でもそんな話が出ますから」というようなことを申しております。
今日ある方が、「これは親先生お歳暮に」と言うてお供えを持ってみえた。「この頃から先生、なにか親先生なにかあの言うて下さい、お歳暮のおかげを頂きたいから、先生の必要な物でなからにゃ、いけなませんから。先生あの、何をお供えさして頂いたら良いでしょうか?」と言う。「そうなあ私はもうなぁんにも欲しかもんなか」実際の上におかげを受けておるもん。あれが、あぁあれがあると良かな、というものがない。という程に私はおかげを受けておるから、「そりゃああなたのご親切だけれども、そりゃ私はどうということは、今は差し当たって必要なものはないから」って言うたら、「ならどういう心掛けで、そのお供えのお歳暮を探させてもらったら良かろうか」とこう。「さぁそうですなぁ」と言われるから私は神様へそのことをお願いさして頂いたら、「博」という、博愛の博、博多の博。「博愛の博という字を頂きますから、ここで一つ良く練らせて頂いてから、おかげ頂かれたら良いでしょう」と私は申しておりました。で今日、そのお供えを持ってみえたんですね、私は聞いてから驚きました。先日から、あっちこっちデパート回ったけれども、そのこれという物がない、そこへ、やっぱり信者友達の方が2,3人あることで、私の方にみえられました、「親先生にお歳暮さして頂こうと思いよるが、何が良かじゃろか」と、「あんたどんもちょっ来てくれんか」というてその言うたち、そしたらその中の一人がですね、「私はあの先日ちょうど夕方おかげを頂いたら、親先生がお風呂入りなさる時に、行き会わせた、そしたらあの履いておられるズボンがこう破れとったですよ」っち言うてから言うた。はぁ、そん時にその方が感じたんですね、「はぁ博ということは履くに通じるんだな」と。そして「これなれば親先生がいつもかつも身に着けておって下さる、広く御用に使うて下さることが出来る」という、「先生がああして足が悪いのも、何かこう、今の新しい、千円で作った、あれは風通しが悪いから、例えばなら神経痛なら神経痛の痛みといったようなものがあるのだから、もう極上等な物を一つなら、買わして頂こう」と言うてその、まあ、そのみえた方と三人でその、何とか、大丸デパートへ行かれたそうです。そしてから行ってから、最高な物を買おうと思うたところがですね、もう、上、上の上があるもんですね、上下6万円だそうです。最高の物は。カシミヤのね、カシミヤの上下の6万円だったです。そりゃぁどげん思うたって自分には手が出らん訳なんですね。自分は実は上下とこう思うておった。けれどもせっかく自分が一生懸命思いを込めたのだから、下だけ買わせて頂こうというて、下だけ買うてきたっちいう、言うなら、だから3万円のズボンのお供えが来とります。
これなんかは、いわゆるお供えされる方は一生懸命ですね、御神意を頂かれて、そして、ようやく、だから、あの、私の、いや持っておる、お金の全部をはたかして頂きましたと言うておられました。ね。
はぁこれはいよいよ、その博という字になってくるということになってくると大したことだと私は思うんですよ。ね。そこで私もです、ならこれを持って、なら、こりゃ私はならバチかぶりゃぁせん、こりゃ履きもされんね言うち、けれどもそりゃ履いて頂かなきゃできん、そりゃ履かにゃいかんどこじゃなか。ならどういう心持で履かして頂いたら良いかと、いわゆる神愛を持って履かして頂こう、博愛を持って履かして頂こうという心が決まりました。ね。お取っ、お供えをする者も一生懸命なら、お取次ぎをさして頂く時も私は一生懸命だと、そして今度は私はそれを、使わせて頂くこともです、ね、一生懸命で履かして頂くというそこにです、三拍子揃うた音色というのが、出てくるのじゃないかとこう思うですね。
これは本当に私共の、私がこんなにおかげを頂いておりますので、もう本当に、一生懸命でお供えをされる、一生懸命でお取次ぎさしてもらう、ところがその一生懸命でそれが使われるということになると、非常におろそかになっておる。果物が(?)腐って頂けなくなったり、野菜がしびれて、萎れてもう仕方がないから捨てなければならないと、お神酒なんか、っとに限りなく頂きますから、と言うてこれを、なん、お粗末なことに使うておったんでは、これは冥賀に、私共が冥賀に尽きるというのではなくてです、全体のおかげに響いてくるということです。せっかく頂いた物じゃから頂いてならんのじゃありません、どんな贅沢な物でも、そりゃ下さってあるのですから、頂かななりません、3万円のズボンでも私は履こうと思うとるくらいですから、ね。けれどもそれが、頂くことに、本当に、お供えしなされよる人の気持ちになって、それが凝視され、使用され、ていかなければ、これは本当に相済まん結果になってくるなということ。
これから、いよいよ本当の意味合いにおいての一生懸命の垢抜けしたお供えを頂かなければ、椛目が立ち行かんという時代に今直面しております。今までぐらいなことじゃない、本気で一生懸命ならなければ、いわゆる本気で一生懸命のお供えを皆さんがなさり、一生懸命で、それを私がお取次ぎさして頂き、ね、一生懸命でそれを凝視しなければ、できないというところに今が、言わば追い込まれておるのですから、ね、いよいよお供えということについては、皆さんも一生懸命のものが出されなければいけませんと思うですね。
それが、私は博愛に及ぼしていけれる、広く大きく御用に立たして頂けれる、椛目のいよいよそれが基礎ともなり土台ともなるような信心にもなり、また形の上のものにもなってくるということになって、私は初めておかげだとこう思う。
どうでも皆さん、おかげを頂いてからね、お供えには一生懸命の思いを込めなさらなきゃいけませんよ、ね、ならこれは私も一生懸命お取次ぎさしてもらう。同時にそれを、お下がりを頂くというのは、例え食べ物飲み物だけならば、家族の者ですけれども、これが例えば金銭ということになってまいりますとですたい、そうではないですもんね。ある場合は大工さんが、ある場合は左官さんがそれを使わなければならないことになってくるかもわかりません。ねご建築というようなことにでもなってまいりますと。いよいよこの一生懸命(テープちょい飛ぶ)っていかなければです、今の、今のままではです、もう今のままでは、椛目は建ちません。一つ大きなおかげを頂きたい。
ためにはお供えをさして頂く者も一生懸命なら、取次がしてもらう者も一生懸命、それを凝視させて頂く者も一生懸命、この三つの調子が本当に揃わして頂く時です、良い音色と言うか、神様に喜んで頂けれる、言わばこの博愛の精神、または、あぁ博愛の精神を持って打ち立てられるところの、例えば会堂なら会堂の建立が出来るというようなことになってくると私は思うですね。おかげ頂きました。